【宗慎茶ノ湯噺】其の一 如月 鬼の念仏の軸

 

現代のライフスタイルに即した新しい茶道の愉しみ方をご提案する、中川政七商店グループの新ブランド「茶論(さろん)」が月一回お届けする「宗慎茶ノ湯噺」。記念すべき第一回のテーマは、まもなくやってくる「節分」です。
 

茶人にとっての節分

節分の頃は、茶の湯においても、茶会を催すのに大変好まれる時期の一つです。昔から約束事になっている道具の取り合わせや、好まれる趣向も数々あり、それらを一つ一つ整えて茶会を催すのも楽しいものです。

節分といえば、鬼を払うための追儺(ついな)の儀式が京都の吉田神社でおこなわれます。

追儺とは元々、難を追い払うと書いて御所でおこなわれた古式の行事のこと。 壬生寺の壬生狂言など、節分を何よりの年間の風物詩とする神社仏閣もあり、この節分を終えることで、本格的に新しい年を迎えたと京都の人は思うものです。

町人の土産物として描かれた、大津絵の「鬼の念仏」

「福は内、鬼は外」の掛け声と共に豆まきをする行事が節分ですから、なにか鬼のモチーフというのは、ぜひとも茶席のなかに一点は欲しいところです。
 
そこで好まれるものの一つが、大津絵の「鬼の念仏」の掛け軸。
 
大津絵とは、元々は東海道五十三次の大津追分の宿場で、街道を行き交う人の土産物として好まれていた、いわゆる民画です。
 
名のある絵師の作品ではなく、あくまでも町場の絵師たちが描いており、街道を旅する人が家族や子供たちの家苞(いえづと)、いわば手土産にするための、一種のカリカチュア、漫画のような、それでいてカジュアルなポスターのような役割を果たす絵でした。
 
かつて、長く大きい立派な紙は 大変な貴重品・贅沢品でした。大津絵の場合は、一般の市中で使われる土産物のようなものですから、そうした立派で大きな長々しい紙に描かれたものは無く、この大津絵の鬼の念仏もいわゆる半紙大の紙を縦に継いであります。
 
ですから、古い大津絵の場合は紙を継いであることも時代を示す証拠ともなっていて、一つの鑑賞のポイントになります。

たくさんの皺が入って、絵具がひび割れたようになっているのも特徴です。広重の五十三次の大津宿の宿場にも描かれているのですが、道端の茶店で絵を買った人に渡すときにはクルクルとポスターを巻き取るように小さくしたために、描かれた絵の具に横皺のひび割れが入るのです。こうしたひび割れや絵の具の剥落も、風情の一つとして喜ばれます。 様々な画題があり、いずれもちょっとした風刺であったり、ウィットに富んでいたりするものが多く、なかでも鬼の念仏は好まれました。

仏のような鬼か、鬼のような仏か

鬼の念仏というのは、本来なら神仏に縁がないはずの地獄の鬼が、お坊さんの恰好をして、 念仏を唱えながら回っている様を描いた絵で、とてもユーモラスなものです。 必ず奉加帳を持っていて、お金を集めて回っている。 面白いと思いませんか?

たとえばこれは、お坊さんはいつもお金を集めに来るという皮肉かもしれません。 もしくは、同じ絵で真逆の解釈も可能です。 鬼であったとしても、改心すれば仏の衣を着ていつでも聖となることができる。そうかと思えば、今日は聖のような顔をしていても、一皮剥けば中は鬼と一緒だ。ご用心ご用心。という風にも受け取れます。

鬼の念仏の他にも、柊や豆まきの枡、そして宝舟があります。本来は、節分の夜にも良い夢 が見られるようにということで、京都の場合は宝舟の絵を枕元に飾ったりもします。様々な 節分のそうした年中行事や祭事を茶室の中にうまく取り込む、取り合わせの妙というものです。 今回ご紹介した大津絵の鬼の念仏の絵は、柳宗悦ら民藝の指導者たちからも大変評価を受け、彼らにも好まれました。

市井の名もなき絵師が、上つ方に見せるためではなく街の人々のために描いた絵には、床の間に掛けることを初めから目論まれた高尚高雅な掛け軸にはない柔らかさとユーモア、そして手強さがあり、好ましいものです。 

解釈によって見方が180°変わる面白さ

こちらの掛け軸は、本来の大津絵の鬼の念仏を写して、江戸時代の後期に大徳寺で活躍し、茶の湯とも縁の深いことで知られた宙宝宗宇(ちゅうほうそうう)という禅僧がメッセージを添えた大津絵の鬼の念仏の掛け軸です。 ですから、直接鬼の念仏というよりは、大津絵の鬼の念仏を倣って描かれた墨絵の鬼の念仏 の上に、宙宝和尚がメッセージを書き記しています。 「今日の仏は昨日の鬼 三悪道より出でて浄土に入る」と歌が記されています。 よくご覧ください。鬼という字の上に、最初の書き出しの点がありません。



鬼という漢字の一点目を鬼の角に見立てて、今日はもう衣を着て仏になっているのでもう角はないということで、最初の一点目をわざと書いていないのです。
 
三悪道というのは、六道輪廻のうち、必ず鬼が登場する三つの世界、地獄道、畜生道、修羅道のこと。

そうした鬼の世界から出ていたとしても、本人の心がけ次第では、浄土の住人になることが できるという宙宝のメッセージ。 とはいえ、今日の仏は昨日の鬼ですから、ポジティブに受け取れば、「昨日までは三悪道の鬼だったとしても、今日は仏」ですが、「今日は仏の恰好をしていても、昨日までは地獄の 鬼であった」という見方もできる。 どう受け取るかは、皆さん次第。 ご用心ご用心。
 

 

木村宗慎(きむら・そうしん)
1976年愛媛県生まれ。茶道家。神戸大学卒業。少年期より茶道を学び、1997年に芳心会を設立。京都・東京で同会稽古場を主宰。その一方で、茶の湯を軸に執筆活動や各種媒体、展覧会などの監修も手がける。また国内外のクリエイターとのコラボレートも多く、様々な角度から茶道の理解と普及に努めている。 2014年から「青花の会」世話人を務め、工芸美術誌『工芸青花』(新潮社刊)の編集にも携わる。現在、同誌編集委員。著書『一日一菓』(新潮社刊)でグルマン世界料理本大賞 Pastry 部門グランプリを受賞のほか、日本博物館協会や中国・国立茶葉博物館などからも顕彰を受ける。他の著書に『利休入門』(新潮社)『茶の湯デザイン』『千利休の功罪。』(ともにCCCメディアハウス)など。日本ペンクラブ会員。日本食文化会議運営委員長。

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